息子と受験と狂想曲

受験と教育よもやま話

<普通に育てられる>という事は、皆に等しく与えられているわけではない。非常に幸運なことなのだと思う。

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センター試験&二次試験について書こうと思ったのですが、

なかなかまとまらず時間ばかりが過ぎています。

大学の実名をどうするか、

我が子のプライシーをどこまで書いていいのか。

今更ですが、色々と迷っております。

 

そうこうしている間に、気になるニュースがありました。

2019年7月に発生した「京都アニメーション放火殺人事件」。

その容疑者が、大阪拘置所に移送されたというニュースです。

ストレッチャーに乗せられた容疑者。

こちらを見るその目が、妙に生々しく感じられました。

 

容疑者は青葉真司という42歳の男です。

青葉容疑者の生い立ちについては、様々なところで公開されています。

どれもおおよそ同じ内容ですが、なんとも気が重くなる半生です。

 

しかしその半生が不遇だったという理由で、

事件の容疑者に同情するつもりは毛頭ありません。

犯罪は犯罪として裁かれるべきであると思っています。

 

ただ私は彼のような人物を見るたびに、

ある家族を思い出すのです。

(以下は”である調”で書きます)

 

機能不全家族 

 

異様な一家

もう50年近く前になる。

当時住んでいた家の近くに、その家族は暮らしていた。

両親と年子の男の子が3人。

母親の親が買い与えた家に、その5人家族は住んでいた。

 

たまに母親の親と妹がやって来るだけで、

知人はもちろんのこと、

子供の友達でさえ、訪ねてくることがない家だった。

 

今思えば、

その母親には、精神に何らかの障害があったのだと思う。

幼かった私でも、明らかに何かおかしいと感じるものがあった。

父親の姿を見たことは、ほとんどない。

 

母親は三人の息子たちを、

生まれた時からずっと、家の中だけで育てていた。

文字通り<家の中だけ>なのだ。

 

外に連れ出すことは一切ない。

子供たちが勝手に出ていかないように、

玄関には常に鍵がかかっていたそうだ。

 

子供はどの子も、

保育園にも幼稚園にも通っていなかった。

 

母親は毎日決まった時間に買い物に出かけ、

後は一日中、家から出ることはない。

 

家の中で、子供たちの遊び相手をしているわけではない。

彼女はどうやら、満足に家事ができなかったようだ。

子ども達のオムツも履いたままで、

おもらしで畳が腐っていたという。

 

外に出たい子供たちは、

窓から屋根やひさしの上に登って騒いだり、

たまに母親が鍵を閉め忘れたのか、

下着と裸足のままで外に飛び出すこともあった。

そんな時はその母親が、無言のまま捕まえ家に連れ帰るのだ。

 

表情も変えずに連れ帰るその異様な光景は、

今でもはっきりと思い出せるほど恐ろしかった。

 

3兄弟の長男が小学校に入るか入らないかという頃に、

父親が近隣の山中で自殺をした。

 

母親は夫の死を理解していたのだろうか、

葬式の日の朝、

いつもと同じように買い物かごを持ち、

彼女はスーパーに出かけて行った。

喪服のままで。

 

子ども達のその後 

子どもたちの父親が亡くなったすぐ後に、

私たち家族は引っ越しをした。

 

残された母子を見ていたわけではないが、

残された3兄弟について、母が知り合いから聞いた事によると、

1人は精神の病いを発病し、

1人は万引きや窃盗などの犯罪を繰り返し、

1人は行方が分からないという。

 

すべて、

中学生や高校生に当たる年齢で、だ。

 

今なら早い段階で、

誰かが警察か児童相談所に通報するだろう。

子供たちは保護され、

あの家で暮らすよりは、穏やかな毎日があったかもしれない。

 

<ネグレクト>という言葉や概念もなく、

<他人の家のことには口出ししない>が暗黙の了解だった当時のこと、

その悲惨な環境にいる子供たちに、

救いの手を差し伸べる大人は、一人としていなかった。

ただ噂話が蔓延するだけで、行政が動くこともなかった。

  

人間が人間を育てるという事 

彼らの行く末を知って思うのは、

<普通に育てられる>という事が、

どれだけ幸運なことであるかということだ。

 

<普通に>とは、

育児書にあるような完璧な育児ではない。

 

観音様か聖母マリアでもないかぎり、

子供をありのままに、

すべてを受け入れ愛することは難しい。 

「もっとこうであったなら」

そう思ってしまうのが人間というものだ。

 

複数子供がいれば、

ウマの合う子もいれば、合わない子もいる。

それでも「仕方がないわ」と、半ば諦めて世話をする。

それでいいのだと思う。

 

食育には程遠いが、

お腹が膨れる程度の3度の食事を作ってやり、

快適な寝床を与えてやり、

清潔を保てる程度に身なりを整えてやり、

聞いて、と言えば聞いてやり、

見て、と言われれば見てやり、

たまには感情のままに怒ったり、

お尻にペシッとやってしまったり、

それでも夜、我が子の寝顔を見ては、

あんなことをしなければよかったと後悔したりする。

 

至らないことは多々あれど、

子供が困らず怯えず過ごすことができる環境を用意すること。

 

それが普通の範疇にある子育てだと思う。

  

大人というもの 

しかし世の中には、

そんな<普通の子育て>にさえ、

あり付けない子どもがごまんといる。

 

しかもこの<ごまんといる状況>は、

多分この先もずっと変わらないだろう。

 

何故なら、

大人は概して、

自ら進んで子供の味方になろうとはしないからだ。

 

かわいそうだと思う、自分のモヤモヤした感情を払拭するために、

警察に通報したり、自相に相談したりはするかもしれない。

でもそれは真に<子供の味方になる>という事ではない。

 

大人は、大人の世界の中で生きているのだ。

周りの<大人>と上手くやっていくことが、何より大事なのである。

下手に子供に関わり、

背後の大人といざこざになる事は、誰だって嫌だし避けたいのだ。

 

それは自相の職員や学校の教師も同じことだ。

もっと言うなら、実の親も同じなのだ。

夫や妻、それぞれの目の前にいる大人とうまくやっていきたいのだ。

 

親でさえそうなのだから、

子どもに関わる職業にある者、近隣の住民、

彼らがその職域や責任の枠を超えて子供の味方にならなかったからと言って、

誰に責めることができるだろうか。

大人はすべて、大人の世界の住人なのだ。

 

不遇な子どもを救うもの

子どもを守るための環境は、昔とは比較にならないほど良くなった。

しかしそれはまだまだ万全とは言い難く、

ネグレクトや虐待、同居の親に殺害される子は後を絶たない。

 

強すぎる親権、

血縁を求めすぎる文化、

それゆえに進まない養子縁組、

 

親子の絆を強調しすぎる世間の風潮

親子の縁を取り戻すことばかりを重視する対応策

 

これは<親子神話>と言えないだろうか

 

血縁関係にある親子は繋がっているもの、

絆があるもの、

愛情が行き交っているものであるはずだと、

そう信じて疑わない。

 

確かにそれは美しい話だ。

誰もが納得し、受け入れやすいストーリーなのだろう。 

 

しかしどんなことでも、

美しい話は<神話>を作り上げてしまう。

そしていつの間にか、

そうではないことを、抹殺しようとするものなのだ。

 

<産むこと>と<育てること>は別である

子どもは100%、育てたように育つわけではない。

育ちたいように育つ部分も大きい。

 

それだけに、

子どもの身に起きた事のすべてが、親の責任であるとは言い切れない。

子どもの資質、親との相性、周りの環境や出会い、

様々な要素が絡まって、子供は大人になるのだ。

 

しかしだからと言って、

親は何もしなくてもよいということではない。

産んだ者の責任として、

親には子どもの行く末を真剣に考えてやる義務がある。

 

しかしそれは、

産んだものが育てなくてはならない、という事にはつながらない。

<子どもを産む>という行為と、

<育てる>という行為は、全くの別物だからだ。

 

別物だからこそ、

子どもを生んだ者が、もし育てる事が苦手だと悟った時は、

子どもを何人でも育てたいという家庭に、

養子として手放してもいいのではないか。

 

それは<子どもを捨てる>ということではなく、

子どものより良い環境と未来のために、

<子どもを託す>というふうに考えられないだろうか。

 

<親子神話>からの脱却 

子供に著しく害を与えるような行為を繰り返してしまうのならば、

<育てる>という事自体をやめたほうが良い。

子育ての適性がないと判断し、

親権を捨てる、あるいは剥奪し、養子縁組を進めたほうが良い。

 

決して親の側の事情を斟酌してはならない。

それは大人の味方をしているのであって、

子どもの味方をしている事にはならないからだ。

 

やりすぎるとかなり危険な行為ではあるが、

このくらいの強硬な手段なしには、

本気で子どもを救う事はできないように思う。

 

生んだ者が、

何が何でも自分で育てなくてはならないという考えを、

社会全体が捨てること。

 そして世間にべったりと張り付いている、

<親子神話>から脱却すること。

 

それが、

親にも環境にも恵まれず、

不遇の中で苦しんでいる子どもを救う、

最初の一歩となるのではないだろうか。

 

縁を切った方が幸せになれる絆もあるのだ。

感謝など到底できるものではない親もいるのだ。

捨ててしまいたいほどに育てにくい子もいるのだ。

 

そういう事実から目を背けてはいけない。

 

親子の愛とか肉親の絆とか、

そういった美しい名のもとに、

親や子という一個人に、問題のすべてを押し付けてはならない。

 

今こうしている間にも、

家という密室の中で苦しんでいる子どもがいるのだ。

大人の都合や斟酌から彼らを見捨てることは、

社会に絶望の種をまくことに他ならない。