模試の判定…気になりますよね。でも子供の受験が終わって思うのは、判定はそれほど気にしなくてもいいんじゃないかという事です。

今年も残り2か月となりました。
受験生はいよいよ最後の追い込みですね。
コロナの影響で、模試がweb受験の予備校もあるようですね。
いつもと違うので不安もあるかと思いますが、
どうぞ落ち着いて、
いつも通り頑張ってほしいです。
*****
さて当ブログ、
いちばん読んでいただいているページは
「模試の判定を気にしますか?」です。
これですね☟
*****
模試の結果は誰でも気になりますし、
我が家でもあれこれ考えました。
でも最終的には、
判定に関係なく受験すると決めました。
結果は、センター試験の失敗により一次敗退。
2次に進めない悔しさ、辛さは大変なものでした(本人も親も)。
受験にも失敗し、模試の結果も良くなかったので、
受験や模試についてあれこれ言う資格はないのですが、
それでも敢えて言いますと、
模試の結果は、そんなに気にしなくてもいいのではないか、
という事です。
合否判定は、1つの参考材料でしかありません。
模試の判定という客観的な物差しも大事ですが、
所詮、模試は模試です。
過去問を解いた手ごたえはどうですか?
あと3か月で穴は埋められそうですか?
最後に決めるのは、
受験生本人の「いけそうだ」という確信ではないでしょうか。
*****
大学受験は、
1ミリでも上位の大学を目指す場合が多いです。
自分のそれまでの実力よりも上を目指すのですから、
ギリギリ間に合うかどうかというのが実情でしょう。
高校3年の春には、既に合格圏内に入っていた。
そんな人でもない限り、A判定なんてなかなか取れません。
B判定も似たようなものです。
C判定が出ていれば御の字。
国立の冠模試なんて、
東大・京大以外は駿台と河合が1回ずつ、
合計2回だけの所が多い。
たった2回の模試の判定で、
どれだけのことがわかるでしょうか?
しかも10月とか11月とかの、です。
*****
そもそも模試とは合否判定のためではなく、
「あなた、ここができていませんよ」という
メッセージを受け取る為のもの。
自分の弱点や不完全な箇所を教えてもらい、
残りの時間で埋めていく。
だから判定は何であっても、
本番までに埋めきる事ができれば、
それでいいのです。
国立二次の場合、
冠模試から本番まで3か月もあります。
穴を埋めるには十分な時間ではないでしょうか。
*****
過去問に手ごたえがあるのなら、
どうしてもその大学を受けたいのなら、
判定が何であれ、受ければいいと思います。
本番までの残り時間を死に物狂いで頑張ればいい。
受験が終わった後に、
「やっぱり受ければ良かった」と
後悔する事だけは無いように。
「受けていたら合格していたのではないか」
そう思うことが一番つらいです。
不合格通知を受け取るよりも辛く悲しい。
どうぞ今までの努力が無駄になりませんように、
自分を信じて、最後まで粘りに粘ってほしいです。
受験生の皆様の健闘を祈ります。
「AIに負けない子どもを育てる」を読んで思うこと。 能力を測るには「試験」しかないが、そこには必ず限界がある。

はじめに
前回は「AI vs 教科書が読めない子どもたち」の要約でした。
その感想と、
続編でもある「AIに負けない子どもを育てる」について
書こうと思いつつ数か月が経ってしまいました。
というのも、
「AIに負けない子どもを育てる」を読んだ後に
なんだか違和感が残りまして…。
その違和感が何なのかがまとまらず、
こんなに日が経ってしまったという次第です。
書籍として売るためには、
主張をはっきりと、
時には極端なことを書かなくてはならないのはわかりますが、
それにしてもなんだろうか…
この嫌は読後感は…
テストの体験版をやってみた
先ずは本文中にある、
「リーディングスキルテスト」の体験版を試してみました。
結果は非常にビミョ~な点数です。
係り受け 10
照応解決 10
同義文判定 6
推論 7
イメージ同定 6
具体例同定・辞書 4
数理 7
(点数は10点満点)
総得点は50/70点。
正答率は71%。
できないといけない最初の2項目は
何とか満点で一安心。
でもその他は、
どれもこれもといった感じですねぇ。
大人の平均は6点だそうですが、
下回っている項目もあります…。
…新井先生に
あれこれ言える点数ではないですねぇ…。
間違った問題のレベルは
<易しい>から<難しい>までいろいろで、
地団駄踏むようなうっかりミスもありました。
ただ、
自分はどんなところで間違うのか、
それがはっきりしていて面白いです。
「うっかりミス」と「考えすぎ」
私のミスはこのどちらか。
「うっかりミス」については、
弁解の余地もありません。
注意力散漫。
反省して改善に努めます。
ただ「考えすぎ」については、
一体どうしたらいいのか?
センター試験と同じ匂いがする
息子に私のテスト結果の話をすると、
「それ、センター試験と同じだね」。
「リーディングスキルテスト」は
センター試験の国語(現国)と似ていると言います。
そして息子も
私と同じような間違い方をするんだと。
そういえばそうでした。
息子も塾では何度も
「考えすぎだ」と言われていました。
どういう間違い方をするのか説明したいのですが、
テストですから設問を転載することはできません。
わかりずらいですが一部だけで。
例えば、
私が4/10点しか取れなかった「具体例同定の辞書」。
問題は「消費」を説明する文章でした。
私は説明文の一部、
「人間が欲望を満たすために」
という言葉にこだわってしまいました。
「この選択枝の内容は、
<人間が欲望を満たすため>と合致するのか?」
この判断に時間がかかったうえ、
答えがわからなくなってしまいました。
また同じよう「使う」という言葉にも
引っかかってしまいます。
「使う」とはどういう状態を指すのか?
これは「使う」に当てはまるのか?
こんなことに散々迷う。
なぜそこの説明や条件がないんだ!
この手の試験を受けるといつもそう思います。
しかし新井先生によると、
説明文の中に答えは必ずあるそうなので、
あれこれ考えてしまう
こちらの責任という事なのでしょう。
これは息子が
センター試験が苦手だった原因と同じです。
こう考えればこの選択枝が正解、
ああ考えればこれも正解という風に、
思考の深みにはまって間違うという惨事が
幾度となく繰り返されました。
リーディングスキルテストは
センター試験と同じ匂いがします。
<得点=理解度>は本当なのか?
「読める」という状態は
それでは「読める」とは
どういう状態をいうのでしょうか。
本文中にはこのように記されています。
➀語彙の意味を理解する。
②構文を正しく把握する。
③機能語(前置詞・接続詞・助動詞など)の用法を理解し、
正しく使う。
なるほどその通りです。
しかし、です。
上の3点ができていても、
リーディングテストで得点できない事が
あるかもしれません。
私や息子が「考えすぎ」で得点できないように、
できない人には、
それぞれの理由や原因があるかもしれません。
得点できなければ「読めていない」と判断されますが、
本当に読めていないのでしょうか?
(学習障害などは除きます)
「試験」というものの限界
試験というものは正解して初めて
「理解している」とみなされますが、
同じ正解・不正解でもその中身は違います。
意味を理解して正解しているのはもちろんですが、
所謂テクニックで得点している場合もあります。
センター試験の国語(現国)などは、
本文をほとんど読むことなく解答する事が可能だそうです。
しかもその方が常に高得点を獲得できるという
不思議なシステムになっています。
ですが試験は合格するためのものですから、
テクニックで解いても何の問題ありません。
「テクニックで高得点」は国語の能力というよりも、
要領の良さや、
教えられたとおりに実行する素直さなどなど、
学力以外の多面的な能力が測られ、
それが高得点だったということかもしれません。
ひょっとしたらそのテクニック自体が、
センター国語で求められる「国語力」なのかもしれません。
要は良い悪いではなく、
「試験とはそういうものだ」ということです。
試験によって、
作成者の意図通りの「何か」を正しく測ることなどできないし、
同じ試験でも人によって「測られる能力」は違うのです。
「違和感」の正体
新井氏の著書を読んで感じた違和感とは、
そういう事です。
リーディングスキルテストが「読む」ということに関して
万能なものであるという主張、
そして、
「読んでわかる」ことが何よりも大切なんだという考えに、
私はどうしても違和感を感じてしまいます。
そこには、
「人は皆同じである」という
思想を感じるからです。
「同じ方法で同じように努力すれば、
みんな同じようにできるはずだ」
そういう信念を感じてうんざりするのです。
スキルテストの点数と学業成績には
高い相関性があるそうです。
そうだろうなぁと思います。
でもそれは、
「文章が読めるようになれば学業成績が上がる」という事と
イコールではないと思います。
読める子は最初から読める。
だから学業成績が高い。
それだけのことではないでしょうか?
数学の教科書が読めないのは、
文章が読めていないからだとありますが、
数学の教科書のような書き方が、
どうしても理解できない子もいます。
読んでわからなければ
言葉で教えてもらえばいいと思うのですが、
それではダメなんでしょうか?
たとえ訓練に訓練を重ねて読めるようになったとしても、
そこには限界があるだろうし、
様々な面で最初から読める子と
同等にはならないだろうと予想します。
オーソドックスな方法で勝ち進んできた人は、
「みんな同じ、やればできる」と
悪気はなく本気でそう思うのかもしれませんが、
残念ながらそうではないということは、
自分自身や息子を見ていて
嫌というほど感じます。
最後に
文句をたらたらと書いてしまいましたが、
子どもたちにもうこれ以上、
受けなくてはならない試験を増やしてあげたくないというのが
本音でもあります。
しかしながら、
新井紀子先生の、
教育を科学的に検証・実証しようとする姿勢は
本当に素晴らしいことだと思います。
教育改革において、
今までどれほどこの部分が欠けていたことか。
私立学校や塾にお金をかけず、
勉強好きの生徒はだれでも、
旧帝大を目指せるようになってほしいとの熱い思いにも、
心から共感します。
言うだけではなく実行されるところが、
新井先生の素晴らしいところですね。
リーディングスキルテストは大変面白いので、
皆様も一度挑戦してみてはいかがでしょうか。
ご自分の思考の癖がわかるかもしれませんよ。
本日はお読みいただき、
ありがとうございました。
「AI vs. 教科書が読めない子どもたち」を読んで。 東ロボくんの挑戦と子供たちの読解力
はじめに
2018年に発行された新井紀子氏の著書
「AI vs. 教科書が読めない子どもたち」
新井氏は数理論理学が専門の研究者で、
「ロボットは東大にはいれるかプロジェクト」
別名「東ロボくん」のディレクターを務めておられます。
発売された当時話題になったので、
ご存じの方も多いのではないかと思いますが、
後半の「読解力」については興味深いです。
ちなみに前半はAI開発の現状と、
シンギュラリティ―はSFであるというお話です。
久しぶりに調べてみると、
「リーディングスキルテスト」が公式な試験として
一般の人にも受検が可能になったのですね。
素早い動きでびっくりしました。
「共通テスト」が関係しているのでしょうか。
今更となりますが、
本の内容や感想を書いてみたいと思います。
2回連載の予定ですので
よろしくお願いいたします。
東ロボくんの挑戦と限界
2011年から東大合格を目指して
猛勉強を始めた東ロボくんですが、
2016年の模試を最後に、
東大受験を諦めることになります。
代ゼミ東大プレでは、
数学で72という高偏差値を出しますが、
後が続きません。
世界史51.8
英語50.5
国語49.7
英語と国語がどうしても伸びない。
進研模試・5教科8科目の偏差値は57.1~57.8.
今後どんなに頑張っても60が限度、
65を超えるのは不可能だろうという判断だったようです。
東大は無理でもセンター模試の結果から、
受験生50万人のうちの上位2割に入っています。
大学名で言うと、
MARCH(一部の学科)の合格圏内に入っていることになるそうです。
大学入試の成績と仕事をする能力が
必ずしも一致するものではないとしても、
人間である私としてはかなりの焦りを感じます。
AIが職場に参入してくる(もうしている)現在、
彼らAIに対抗でき得る人間は
はたしてどのくらいの割合で存在するのか。
リーディングスキルテスト
人間のライバルとなるかもしれないAI。
彼らと共に生きていくには
AIにはまねのできない、
人間独自の能力を発揮するしかありません。
応用力や発想力、
そして読解力を基盤とした
コミュニケーション能力や理解力。
新井氏のチームは、
「読解力」の調査を行いました。
現在(調査当時)の中高生の
読解力はどれくらいなのか?
ただしこの調査で言う「読解力」とは、
難しい評論文を読むとか文学を味わうとかではなく、
短い説明文を読み、
その内容をきちんと理解することを指しています。
全国の中高生・社会人、
合わせて2万5千人を対象に
「基礎的読解力調査」を行います。
調査に使用したのは、
チームが開発した
「リーディングスキルテスト」です。
調べた項目は以下の6項目。
➀係り受け
主語・述語の関係など、
文節を理解する
②照応
指示代名詞が何を指すのかを理解する
③同義文判定
二つの文章を読み比べ、
意味が同じかどうかの判定をする。
④推論
常識・経験・知識を使って
文章の意味を理解する。
⑤イメージ固定
文章と図形やグラフを比べ
内容一致を判断する。
⑥具体例同定
ある定義を読み、
それと合致する具体例を認識する。
それで結果はどうだったかと言いますと、
これがけっこう悲惨です。
こちらのサイトに例題が載っています。
2ページ目から例題が始まります。
ロボットの苦手と人間の苦手は同じ?
調査の結果、
AIが苦手とするのは4項目。
先ずは「同義文判定」。
書き方の違う2つの文章が、
同じことを意味しているかどうかの判定です。
素人目には「できるんじゃないか」と思いますが、
長年の研究にも関わらずうまくいかないのだそうです。
同義文判定ができるようになれば、
入試試験の「記述問題」採点を
AIに任せることができます。
しかし実現はまだまだ先のようです。
残りの3つ、
「イメージ同体」、「具体例同体」、「推論」。
「常識」と「意味を理解すること」が必要な項目です。
例えば「推論」の問題を本文から抜粋しますと、
エベレストは世界で最も高い山である。
この文に書かれていることが正しいとき、
下の文に書かれていることは正しいか。
次のうちから答えなさい。
➀「正しい」
②「間違っている」
③「これだけでは判断できない」
エルブルス山はエベレストよりも低い。
thinking time ・・・
答えは➀の「正しい」です。
これは言葉の常識というか経験というか、
エベレストが「最も高い」のであれば、
その他の山はすべてエベレストよりも低いことになります。
エルブルスという山を
知っているか知らないかは問題ではありません。
機械はこの手の問いが苦手なんですね。
どれだけ高度になっても、
AIは単なる「計算機」でしかありません。
意味を理解せず常識がない「計算機」には、
できなくても無理はないのです。
ところが、です。
AIにできない問題が、
同じように人間にもできないのです。
これは大変です。
結果は悲惨
リーディングスキルテストの単純な正答率は
次のようになりました。
中学3年生と高校2年生の結果を載せました。
単位は(%)、まずい分野を赤字にしています。
「係り受け」
中学生:73.7
高校生:81.5
これはさすがに正答率が高いです。
「照応」
中学生:74.6
高校生:82.2
まだまだ高い。
「同義文判定」
中学生:70.6
高校生:81.0
これは嬉しい。
AIの苦手分野ですから、
人間に活路有りです。
…と思いましたが、
これが後で衝撃を受けます。
「推論」
中学生:64.6
高校生:68.5
少しあやしくなってきました。
「イメージ同定」
中学生平均:38.8
高校生平均:54.6
これは低い。
中学生は半分を切っています。
「具体例同定」
➀辞書
中学生:42.2
高校生:43.9
②数学
中学生:34.2
高校生:42.4
こちらも低い。
特に数学がひどいです。
中学生は3割しかできていない。
これだけでもまあまあ悲惨な結果ですが、
もっと悲惨な事実が判明します。
もっと悲惨な「ランダム率」
単純な正答率から
「ランダム率」を計算します。
と言うのも、
テストはすべて選択問題です。
鉛筆を転がしたりテキトーに答えても、
4択なら25%、
3択なら33%の確率で正解してしまいます。
そうした「鉛筆転がし並み」の人の割合を表したのが「ランダム率」です。
要するに「全くできない人」の割合です。
さあでは、
AIが苦手なものだけについて発表します。
「同義文判定」
中学3年 70.2
高校2年 65.7
「推論」
中学3年 43.4
高校2年 37.6
「イメージ同定」
中学3年 31.1
高校2年 13.4
「具体例同定」
*辞書
中学3年 48.7
高校2年 53.4
*数学
中学3年 79.4
高校2年 57.6
同義文判定はどうしたのでしょうか?
全くできない人が「7割」とは!
できていると思ったのは錯覚だった?
さぁ、この結果をどうとらえましょうか。
学習障害の疑いも含まれるかもしれません。
あとは語彙の不足か、
集中して文章を読む訓練ができていないのか。
次回は
著書の内容も含めての感想になります。
新井紀子先生が東ロボくんについて、
TED でお話しされています。
日本語字幕付きです。
<難関・私立中高一貫校>は誰のためのものなのか? 向く子、向かない子は「自己管理能力」がカギとなる。

息子は中学受験をしました。
それは私が
大学生の頃から決めていたことです。
将来自分に子供が生まれたら、
絶対に私立の中学に入れようと。
なぜそう思ったかという部分については
また後日にするとします。
大学受験が終了し、
我が子の受験競争が終わった今、
本当に中学受験をしてよかったのか、
私立中高一貫校とは何だったのか、
もう一度冷静になって振り返ってみたいと思います。
はじめに
今回、話題とするのは
「難関」と言われる中高一貫校に絞ります。
偏差値は地方によって違いますが、
R4偏差値で言いますと、
おおよそ60以上となるでしょうか。
ただし医学部志望だけは別とします。
昨今の医学部受験は少々特殊。
今回の内容とはまた別な話となります。
高偏差値の意味するところ
私立中学を目指す目的は様々だと思いますが、
大学受験に有利だろうということが目的なら、
中学受験は慎重に考えた方が良いと思います。
特に「難関校」と言われる学校は要注意です。
ここに進学して上手くいくのは、
かなり勉強ができるお子さんだけだと思います。
「かなり勉強ができる」とは一言で言うと、
自主的に勉強ができるということです。
誰に言われなくても予習・復習ができる。
しかも勉強の仕方を知っている。
これは非常に重要です。
自主的に、効率よく、
毎日決まった時間勉強を続けることができる。
これができないと、
たちまち下位グループに陥ってしまう可能性があります。
「幼い」とは
難関校がなぜ偏差値で入学者を切るのか。
それは、
ある程度のことは自分でできるだろうとの
期待値なのです。
授業の進度について行けますというだけではなく、
それ以上のことを期待しての、
あの高い偏差値なのです。
中学受験に関する著書を読んでいると、
必ず「幼い」という文字を目にすると思います。
「幼い子は中学受験に向かない」とか、
そんな風に表現されているのではないでしょうか。
「幼い」とはどういうことなのか。
出題の深意が理解できない、
そういった意味での「幼さ」もありますが、
私は先ほどから書いている
「自主的に勉強ができない」とイコールだと思います。
「自己管理ができない」とも同じです。
それは今だからできないのか、
この先もできないのか、
それとも
成長と共にできるようになるのかは未知数です。
誰にもわかりません。
それだけに、
すでに自己管理ができている集団の中に
我が子を入れてしまっていいのかどうか、
慎重に考える必要があるのです。
自己管理ができる2つのタイプ
自己管理ができる人にもタイプがあり、
大まかに分けると次の2パターンではないでしょうか。
➀短期集中型の人
②淡々と勉強する人
短期集中型の人
例えば、
中学生の間は部活動に熱中し、
高校からは勉強に熱中するというタイプの人です。
スポーツ部ではよく聞く話です。
頭の切り替えが早いと言いますか、
「しなければ」と思えばさっと切り替え、
次の事に集中できる。
感情を引きずらないんでしょうね。
高校2年まで遊んでいても、
受験に集中したら東大に行けた、などと言うのも、
こういった集中型の人かもしれません。
淡々と勉強する人
私にはもっとも理解しがたいタイプの人達です。
このタイプの人は、
とにかく毎日必ず勉強する人です。
やりたいことがあろうとなかろうと、
勉強だけは毎日する。
例えば、
野球に熱中していて毎日練習を頑張っている。
へとへとになるほど練習した後でも、
家に帰ったら必ず勉強する。
こういう人は
高3の夏まで試合に出てたりします。
親としては、
こんなに羨ましいことはありません。
「<勉強しろ>と言われた事がない」、
なんていうのも、こういうタイプの人でしょうね。
京大からプロ野球入りし、
引退後は三井物産に入社した田中英祐さんが
まさしくこういう人でしょう。
どんなに疲れていても、
勉強だけは毎日したそうです。
ただ、あのずば抜けた優秀さは
それだけではないと思いますが…。
さてこの2パターンの人々。
この人たちは
「難関」と言われる学校に向く人達です。
特に「淡々と勉強する人」なら、
どこに行っても大丈夫。
学校はほぼ関係ないでしょう。
どの道を辿っても、
満足のいく結果を残してくれると思います。
自己管理のできない人
宿題はするが”やりっぱなし”でほおっている。
自分の苦手箇所を補強しようという気がないか、
もしくはその方法がわからない。
時間で打ち切ることが苦手で、
好きなことをズルズルとし続けてしまう。
受験時期になっても
自分に合った勉強方法がわからないままで、
なんとなくおざなりな勉強を続けてしまう。
こうした、
誰かに厳しく管理されないと上手くいかない人たち。
我が子にも、こういう要素があります。
この手の子を動かすには、
モチベーションが必要です。
やる気の種はなんでもいいのです。
将来の夢でもいい、
女の子にモテたいでもいい。
何か自分の中に
強烈なモチベーションが発生したら
勉強をし始める。
ところが、
このモチベーションというものは偶然に沸き起こるもので、
人為的に起こせないのが厄介なところなのです。
「やる気スイッチ」は
本人が押すしかないのです。
もし、やる気がOFFのまま
高校の3年間が過ぎてしまったら最悪です。
溜まる親の心労、
何とかしようとお金だけがやたらと出て行き、
後には虚しさだけが残るという、
悪夢としか言いようのない事態になります。
(我が家がまさにこれです。)
はっきり言って、
こういう子の場合、
勉強も受験も「賭け」になります。
難関中学に進学してみるか、
それとも面倒見の良い中堅ランクの私立中学に行くか。
はたまた地元の公立中学に行くか。
いずれにしても
結果がどうなるかは予測不能です。
環境は大事です。
でも環境を整えたから万全だ、とはならないのがこのタイプ。
非常に厄介なんです。
このような状態の子が、
難関中学に合格するのか?と
疑問に思うかも知れません。
ところが、
小学生の時は、
たまたまモチベーションが上がって
合格してしまうということがあります。
小学生はまだまだ素直で親の言う通りですから、
少しでも本人にやる気があれば、
後は何とかなってしまうのです。
難関中学は誰のためのものなのか
偏差値が高くなればなるほど、
自己管理ができる子が多くなります。
学校はその中でも、
上位の生徒を中心に考えるので、
きめ細かな対応や、
面倒見の良さと言ったものは
まず無いと思っておいた方が賢明です。
彼らは十分に自己管理ができます。
そういう子にとっては、
きめ細かな面倒見の良さは、
かえって邪魔になるのです。
難関・中高一貫校という所は、
そういう人たちのためにある学校なのです。
お子さんは自己管理ができますか?
毎日、自主的に勉強ができていますか?
これができないにも関わらず進学してしまうと、
入学後の6年間、
親がつきっきりで勉強の面倒を見ることになります。
塾に関しても大変です。
中高一貫校向けの塾は数が少ないですから、
家庭教師か個別指導になります。
精神的にも金銭面でも、
中学入試の状態が延々と続くことになるのです。
しかもそこまでしても、
結果がどうなるかはわかりません。
あなたはこの状況に耐えられますか?
ではどうしたらいいのか?
中学受験を始めると、
つい親の方に熱が入ってしまい、
もっと上に、
もっと高偏差値の学校へと気持ちが動いていきます。
一種の競争ですから仕方がないのですが、
もしお子さんが「自己管理ができない子」だった場合、
少し立ち止まって考えてほしいのです。
中学受験の目的は何ですか?
もしそれが
「大学受験に有利だから」というだけなら、
難関中学に拘る必要はありません。
もっと言うなら、
私立中学に拘る必要もないかもしれません。
周りの優秀さに嫌気がさすタイプの子なら尚更です。
大学受験を迎える前に
受験で無理をさせてはいけません。
「受験」だけで言うならば、
一番大事なのは大学受験です。
ここに至るまでに無理は禁物です。
子どものエネルギーを
削いでしまってはダメです。
ただでさえ動かない子です。
中学受験、大学受験と、
そう何度も全速力で走れるわけがありません。
しかも6年間と言う間が空きます。
その間に、
完全に止まりきってしまう恐れもあるのです。
学校の勉強や受験のシステムに向かない子には、
走る期間をできるだけ短くしてあげることです。
小学校と中学校の前半までは決して無理をさせず、
高校入試をスタートに、その後の3年間だけ全力で走る。
高校受験でも無理をしてはいけません。
進学先は、
面倒見の良い、
中堅クラスの私立高校がいいと思います。
地域のトップ校や
難関私立高校を目指す必要はないのです。
そこもやはり、
難関私立中高一貫校と同じ環境なのですから。
結局はギャンブル
ただ何度も言いますが、
このタイプの子は予測が不可能です。
「これで大丈夫だ」と決して思わないこと。
満足のいく結果にならないかもしれないと、
常に覚悟をしておくことが必要です。
これはギャンブルなんです。
勝つか負けるかは運しだい。
「こうしたらこうなる」方式は適応できない子なんです。
「宝くじ、当たればいいなぁ」
それくらいの気持ちでいたほうが、
親の精神衛生には良いのだと思います。
宝くじは買わなければ当たりません。
一度は買ってみましょう。
後は野となれ山となれ。
気楽な気持ちで、見守るしかありません。
自分ができなかったことを人に勧めるのは
気が引けますが、
さまざまな後悔の残る今、
中学受験で
あんなに無理をさせることはなかったと、
心底そう思うのです。
これから受験をされるご家庭が、
競争に流されることなく、
冷静な判断をされることを願っています。
中学受験の算数ができても大学受験の数学ができるとは限らない。「高校数学は面倒だ」と息子はいうのですが…。

これより以降は、
「息子が言うには」という
但し書きが付きます。
数学に詳しい方が読むと、
「何を言っているんだろうか?
ただの勉強不足ではないのか?」
「数学とはそんなもんじゃない!」と
お叱りをいただくかもしれません。
ですので数学の話はいつも恐々です。
それでも私は不思議なのです。
中学受験の、
あの年齢不相応に難しい算数を解いていた子が、
なぜ高校数学がああまでできなかったのか。
中学受験の算数と
大学受験の数学は何が違うのか?
高校数学の才能がない?
「なぜ?」と尋ねて息子が答えたのが、
以下の会話となります。
息子
「中学受験の算数はある程度センスで解けるけど、
大学受験の数学は公式を覚えることが重要なんだ。
答えは出ていてもその解法が違ったり、
決まったように記述しないと不正解になるんだよ。」
母
「それは練習不足という事なんじゃないの?」
息子
「練習不足かもしれない。
でも自分はそんな練習はしたくなかったし、
興味も持てなかった。
何故そうなるのかわからないのに、
言われたままに覚えるのがどうしても嫌なんだ。」
母
「でもその理由を聞いても
理解できないでしょう?」
息子
「そうだね、
一度聞いたことがあるけど、
難しくてわからなかった。」
母
「それでも覚えるのは嫌なの?」
息子
「嫌だ」
母
「・・・。」
中学受験の算数はセンスで解ける?
中学受験は<センス>が必要だと言われますが、
<センス>って・・・なに?
「”こうしたら解けるんじゃないかなぁ…、
と思って手を動かしていたら解けた”
そんな感じで解くのが
<センス>ってことなんじゃないのかな?」
中学受験の算数はなんとなく解けたという。
そして出た答えを計算式と一緒に書けば正解となる。
もちろん受験塾で叩き込まれているので、
「一から考えて」と言うことではありません。
習った方法を組み合わせたり、応用したりだと思います。
そして中学受験算数でも途中の式は大事です。
部分点ももらえます。
どうやって解いたかが重要なことは
大学受験と違いはありません。
しかし中学受験の算数では、
大学受験の数学ほどの記述は求められません。
問題はこの<記述力>にあるようです。
高校数学は面倒?
「算数と同じように、
”こうじゃないかなぁ…”とやってると答えは出る。
でもその解法を決まった文言や数式を使って、
例えば<これこれをaとする>とか、
<なになに=これこれならば>とか、
とにかく事細かく説明しないとバツになる。
でも僕は、
あれこれ細かく説明するのが面倒なんだよ。」
面倒?
「”この数式が表しているのはココの面積です”と、
指さして言葉で言えば数秒で済むのに、
それをわざわざ文字や数字で書くのが面倒ってこと。
答えが出てるんだからもういいんじゃない?
と思ってしまうんだ。」
数学の試験はいつでも、
本人は自信満々でも
点数はさほどでない事が多かった。
これは多分、
点数を取るための解答を書けないことが原因だったのだろうと、
今更ながら思います。
前にも書きましたが、
「関数で解く問題をベクトルで解いてしまった」
と言っていたことがありました。
そこでもうアウトじゃないの?
「ベクトルで解く方法もあるけれど、
それをすると解法が大変だって塾の先生が言ってた。」
「それならなぜ関数で解かないんだ!」と思いますが、
練習不足により関数で解くことに気が付かない。
そこで、こうかなぁ…とやっているとベクトルで解けた。
でもその解法を覚えていない。
したがって点数もつかない。
しかも時間がかかって他の問題までいけない。
いつもこんな感じで
失点していたでしょうねぇ…
公式を無視して、
自分の好きなように時間をかけて解き、
それを口頭で説明する。
こんな風だったら、
もっと機嫌よく数学に取り組めたのかもしれません。
数学は嫌いではないと言っていた息子。
しかしこれでは試験に対応できません。
それにこれでは「数学」と言えないのかもしれせん。
数学というもの
①公式をたくさん覚えて(引き出しを増やす)、
②これは何を問うた問題なのかを的確に読み取り、
③それに適した道具を引き出しから取り出し、
④その取り出した道具を組み合わせ、
⑤自分がどんな風に解いたのかを、
誰が見てもわかるように書く。
この一連の作業が「高校で習う数学」というもの。
息子は筋金入りの「面倒がり屋」です。
先ず自分の引き出しを増やすためには
様々な問題を解く必要がありますよね。
それがもう面倒なんです。
思えば息子は「公文式」が大嫌いでした。
中学受験でも、
試験の見直しは頑としてしませんでした。
一度済んだことや同じことを、
何度も繰り返すのが苦痛なんですね。
証明問題と図形問題
うまの合わない数学ですが、
好きな分野もあるのです。
小学生のころから図形問題は好きですし、
中学以降は証明問題も好きでした。
どちらも、
あまり公式がないのでいいのだそうです。
でも残念なことに、
大学受験では「公式があまりない」ことが原因なのか、
二つともあまり出題されないそうです。
証明問題に関しては、
ものすごく簡単になるか
難しくなり過ぎるかのどちらかで、
そもそも入試には向かない(と聞いたと息子が言う)。
図形問題は、
これは私の勝手な想像なんですが、
「高校数学の勉強をきちんとしましたよ」という
証にならないからではないかな?と思います。
公式があまりないということは、
その問題だけ偶然解けただけかもしれなし、
勉強しようとしまいと、
出たとこ勝負になってしまう。
それでは数学ができるのかどうか、
判断がつかない。
この2つの分野、
学校でも塾でも
数学の先生はあまり好きではないと
おっしゃっるんだそうです。
もちろん好きでないだけで、
どんな難問でもOKなんですが。
数学が得意な人とそうでない人は何が違うのか、
この辺りにヒントがあるのかもしれません。
面白い奴なんだけどなぁ…
息子が学校の数学が苦手だった原因は、
<面倒がり屋>だったこと。
面倒だから公式も覚えられない、
面倒だから記述力も育たない。
要は、
”綿密にコツコツと何かをすることが苦手な人”という事でしょう。
学校の勉強とか受験には向かないタイプかもしれません。
多分仕事でも、
向き不向きが強く出るタイプなのではないかと思います。
いつもこんな感じで、
悲観的な内容になってしまいますが、
私としては、
こういうタイプの人が嫌いではないんです。
寧ろ、人としては”面白い奴”だと思うのです。
でも残念ながら、世間的にはあまり評価されない。
特に学校(勉強面)とか会社員としては、
低い評価になってしまうように思います。
悔しいなぁっと思いますが、仕方ないのですよね。
息子にはぜひ、
自分が花咲くような場所を見つけてほしいと
心から願っています。
お子さんが受験に失敗してしまったお母様方、気持ちは落ち着かれたでしょうか?

拝啓
全国津々浦々の、
我が子が受験に失敗してしまったお母様方。
もう気持ちは落ち着かれたでしょうか?
私は未だ、晴れることはありません。
普段は普通にしていても、
ふとした拍子に辛い気持ちが頭の中に充満し、
つい涙ぐんでしまいます。
この先、楽しいとかうれしいとか、
心からそんな気持ちになる日はくるのでしょうか?
今年はコロナの影響で、学校は遠隔授業が続きましたね。
小・中・高はもう対面授業が始まっているのでしょうか。
大学はいまだに遠隔のところが多いです。
本来なら子供は学校に行き、新しい生活が始まります。
ところが春になっても子供は家におり、
6月の現在でもまだ家にいます。
この状況が、母の心の癒しの障壁となっているように感じます。
子どもが大学に機嫌よく通っている様子を見れば、
多少なりとも母の気持ちも落ち着くのではないでしょうか。
入学式があり、新しい友達に出合い、サークルの新歓で合格を祝ってもらい…。
そうした一連の儀式があって初めて、
明日に向かおうとする気持ちも生まれて来るのではないでしょうか。
それが一切なく、
ただPC相手に授業だけ受けている。
仕方のないこととはいえ、どうしても虚しさばかりが募ります。
そもそもなぜ、
我が子の受験の失敗がこんなにも辛いのでしょうか。
以前あるブログで、こんなものを読んだことがあります。
お子さんが大学受験に失敗したお母さん。
お家の床一面に、
小さい頃に使っていた知育玩具や絵本、
お子さんの学習に使った様々なものをバッと並べて、
「私の一体何が悪かったのか」と号泣された。
…このお母さんの気持ち、痛いほどわかります。
子どもがどうこうというよりも、
母親である自分の不甲斐なさが辛いんですよね。
私の何が悪かったのか。
考えればきりがないくらい、
<たられば>の後悔が襲ってきます。
なぜああしなかったのか、こうしなかったのか。
でも一番最後に行きつくのは、
やはり母である<自分>なんです。
こだわりが強くて頑固で、
熱中型で飽き性で、
したいことを我慢するのが苦手で、
その為に今しなくてはならない事が後回しになって、
とことん困った状況になってからでないと重い腰を上げないという、
そんなADHD気質などうしようもない性格である私。
どちらかと言うと私に似ている我が子。
このどうしようもない遺伝子を受け継いでしまったのでしょうか。
夫に似ればよかったのに、
なぜ私に似てしまったのかと思ってしまう。
遺伝要因か環境か、
どちらも影響すると言われていますが、
まず遺伝要因があってこその環境ではないのかと思うのです。
余程劣悪な環境でない限り、
子どもは<自分の持って生まれたもの>が示す方向へ
伸びていってしまうものではないでしょうか。
無理にあっちへこっちへと、
親の気にいるように曲げようとしても、なかなか上手くいかない。
子どものもって生まれた特質が<学校の勉強>に向くなら幸運です。
本当に幸運だと思います。
でも違うなら…諦めるしかありません。
もうそろそろ諦めないといけないのでしょう。
子どもは私の思うようにはならないということ、
自分は上手くできなかったということを。
多分この先いくら考えても、これでよかったんだとは思えないでしょう。
だったら諦めるしかありません。
仕方なかったと諦める。
そうして、
うっすらとした悲しみと一緒に
毎日を暮らしていくしかないのでしょう。
全国の<我が子が受験に失敗した>お母さま、
叶う事ならお会いしたいです。
会って一緒に泣きたいです。
泣いて、愚痴って、思いっきり毒を吐き出したい。
現実の世界ではなかなかそれができません。
お互いの熱の入れようも違うし、成功した人も多いですから。
暫くは誰にも会わず、
心が鎮まるまで、一人で静かに過ごそうと思います。
皆さまもどうぞ心穏やかに過ごされますよう、
心からお祈り申し上げます。
敬具
<普通に育てられる>という事は、皆に等しく与えられているわけではない。非常に幸運なことなのだと思う。

センター試験&二次試験について書こうと思ったのですが、
なかなかまとまらず時間ばかりが過ぎています。
大学の実名をどうするか、
我が子のプライシーをどこまで書いていいのか。
今更ですが、色々と迷っております。
そうこうしている間に、気になるニュースがありました。
2019年7月に発生した「京都アニメーション放火殺人事件」。
その容疑者が、大阪拘置所に移送されたというニュースです。
ストレッチャーに乗せられた容疑者。
こちらを見るその目が、妙に生々しく感じられました。
容疑者は青葉真司という42歳の男です。
青葉容疑者の生い立ちについては、様々なところで公開されています。
どれもおおよそ同じ内容ですが、なんとも気が重くなる半生です。
しかしその半生が不遇だったという理由で、
事件の容疑者に同情するつもりは毛頭ありません。
犯罪は犯罪として裁かれるべきであると思っています。
ただ私は彼のような人物を見るたびに、
ある家族を思い出すのです。
(以下は”である調”で書きます)
機能不全家族
異様な一家
もう50年近く前になる。
当時住んでいた家の近くに、その家族は暮らしていた。
両親と年子の男の子が3人。
母親の親が買い与えた家に、その5人家族は住んでいた。
たまに母親の親と妹がやって来るだけで、
知人はもちろんのこと、
子供の友達でさえ、訪ねてくることがない家だった。
今思えば、
その母親には、精神に何らかの障害があったのだと思う。
幼かった私でも、明らかに何かおかしいと感じるものがあった。
父親の姿を見たことは、ほとんどない。
母親は三人の息子たちを、
生まれた時からずっと、家の中だけで育てていた。
文字通り<家の中だけ>なのだ。
外に連れ出すことは一切ない。
子供たちが勝手に出ていかないように、
玄関には常に鍵がかかっていたそうだ。
子供はどの子も、
保育園にも幼稚園にも通っていなかった。
母親は毎日決まった時間に買い物に出かけ、
後は一日中、家から出ることはない。
家の中で、子供たちの遊び相手をしているわけではない。
彼女はどうやら、満足に家事ができなかったようだ。
子ども達のオムツも履いたままで、
おもらしで畳が腐っていたという。
外に出たい子供たちは、
窓から屋根やひさしの上に登って騒いだり、
たまに母親が鍵を閉め忘れたのか、
下着と裸足のままで外に飛び出すこともあった。
そんな時はその母親が、無言のまま捕まえ家に連れ帰るのだ。
表情も変えずに連れ帰るその異様な光景は、
今でもはっきりと思い出せるほど恐ろしかった。
3兄弟の長男が小学校に入るか入らないかという頃に、
父親が近隣の山中で自殺をした。
母親は夫の死を理解していたのだろうか、
葬式の日の朝、
いつもと同じように買い物かごを持ち、
彼女はスーパーに出かけて行った。
喪服のままで。
子ども達のその後
子どもたちの父親が亡くなったすぐ後に、
私たち家族は引っ越しをした。
残された母子を見ていたわけではないが、
残された3兄弟について、母が知り合いから聞いた事によると、
1人は精神の病いを発病し、
1人は万引きや窃盗などの犯罪を繰り返し、
1人は行方が分からないという。
すべて、
中学生や高校生に当たる年齢で、だ。
今なら早い段階で、
誰かが警察か児童相談所に通報するだろう。
子供たちは保護され、
あの家で暮らすよりは、穏やかな毎日があったかもしれない。
<ネグレクト>という言葉や概念もなく、
<他人の家のことには口出ししない>が暗黙の了解だった当時のこと、
その悲惨な環境にいる子供たちに、
救いの手を差し伸べる大人は、一人としていなかった。
ただ噂話が蔓延するだけで、行政が動くこともなかった。
人間が人間を育てるという事
彼らの行く末を知って思うのは、
<普通に育てられる>という事が、
どれだけ幸運なことであるかということだ。
<普通に>とは、
育児書にあるような完璧な育児ではない。
観音様か聖母マリアでもないかぎり、
子供をありのままに、
すべてを受け入れ愛することは難しい。
「もっとこうであったなら」
そう思ってしまうのが人間というものだ。
複数子供がいれば、
ウマの合う子もいれば、合わない子もいる。
それでも「仕方がないわ」と、半ば諦めて世話をする。
それでいいのだと思う。
食育には程遠いが、
お腹が膨れる程度の3度の食事を作ってやり、
快適な寝床を与えてやり、
清潔を保てる程度に身なりを整えてやり、
聞いて、と言えば聞いてやり、
見て、と言われれば見てやり、
たまには感情のままに怒ったり、
お尻にペシッとやってしまったり、
それでも夜、我が子の寝顔を見ては、
あんなことをしなければよかったと後悔したりする。
至らないことは多々あれど、
子供が困らず怯えず過ごすことができる環境を用意すること。
それが普通の範疇にある子育てだと思う。
大人というもの
しかし世の中には、
そんな<普通の子育て>にさえ、
あり付けない子どもがごまんといる。
しかもこの<ごまんといる状況>は、
多分この先もずっと変わらないだろう。
何故なら、
大人は概して、
自ら進んで子供の味方になろうとはしないからだ。
かわいそうだと思う、自分のモヤモヤした感情を払拭するために、
警察に通報したり、自相に相談したりはするかもしれない。
でもそれは真に<子供の味方になる>という事ではない。
大人は、大人の世界の中で生きているのだ。
周りの<大人>と上手くやっていくことが、何より大事なのである。
下手に子供に関わり、
背後の大人といざこざになる事は、誰だって嫌だし避けたいのだ。
それは自相の職員や学校の教師も同じことだ。
もっと言うなら、実の親も同じなのだ。
夫や妻、それぞれの目の前にいる大人とうまくやっていきたいのだ。
親でさえそうなのだから、
子どもに関わる職業にある者、近隣の住民、
彼らがその職域や責任の枠を超えて子供の味方にならなかったからと言って、
誰に責めることができるだろうか。
大人はすべて、大人の世界の住人なのだ。
不遇な子どもを救うもの
子どもを守るための環境は、昔とは比較にならないほど良くなった。
しかしそれはまだまだ万全とは言い難く、
ネグレクトや虐待、同居の親に殺害される子は後を絶たない。
強すぎる親権、
血縁を求めすぎる文化、
それゆえに進まない養子縁組、
親子の絆を強調しすぎる世間の風潮
親子の縁を取り戻すことばかりを重視する対応策
これは<親子神話>と言えないだろうか。
血縁関係にある親子は繋がっているもの、
絆があるもの、
愛情が行き交っているものであるはずだと、
そう信じて疑わない。
確かにそれは美しい話だ。
誰もが納得し、受け入れやすいストーリーなのだろう。
しかしどんなことでも、
美しい話は<神話>を作り上げてしまう。
そしていつの間にか、
そうではないことを、抹殺しようとするものなのだ。
<産むこと>と<育てること>は別である
子どもは100%、育てたように育つわけではない。
育ちたいように育つ部分も大きい。
それだけに、
子どもの身に起きた事のすべてが、親の責任であるとは言い切れない。
子どもの資質、親との相性、周りの環境や出会い、
様々な要素が絡まって、子供は大人になるのだ。
しかしだからと言って、
親は何もしなくてもよいということではない。
産んだ者の責任として、
親には子どもの行く末を真剣に考えてやる義務がある。
しかしそれは、
産んだものが育てなくてはならない、という事にはつながらない。
<子どもを産む>という行為と、
<育てる>という行為は、全くの別物だからだ。
別物だからこそ、
子どもを生んだ者が、もし育てる事が苦手だと悟った時は、
子どもを何人でも育てたいという家庭に、
養子として手放してもいいのではないか。
それは<子どもを捨てる>ということではなく、
子どものより良い環境と未来のために、
<子どもを託す>というふうに考えられないだろうか。
<親子神話>からの脱却
子供に著しく害を与えるような行為を繰り返してしまうのならば、
<育てる>という事自体をやめたほうが良い。
子育ての適性がないと判断し、
親権を捨てる、あるいは剥奪し、養子縁組を進めたほうが良い。
決して親の側の事情を斟酌してはならない。
それは大人の味方をしているのであって、
子どもの味方をしている事にはならないからだ。
やりすぎるとかなり危険な行為ではあるが、
このくらいの強硬な手段なしには、
本気で子どもを救う事はできないように思う。
生んだ者が、
何が何でも自分で育てなくてはならないという考えを、
社会全体が捨てること。
そして世間にべったりと張り付いている、
<親子神話>から脱却すること。
それが、
親にも環境にも恵まれず、
不遇の中で苦しんでいる子どもを救う、
最初の一歩となるのではないだろうか。
縁を切った方が幸せになれる絆もあるのだ。
感謝など到底できるものではない親もいるのだ。
捨ててしまいたいほどに育てにくい子もいるのだ。
そういう事実から目を背けてはいけない。
親子の愛とか肉親の絆とか、
そういった美しい名のもとに、
親や子という一個人に、問題のすべてを押し付けてはならない。
今こうしている間にも、
家という密室の中で苦しんでいる子どもがいるのだ。
大人の都合や斟酌から彼らを見捨てることは、
社会に絶望の種をまくことに他ならない。