息子と受験と狂想曲

受験と教育よもやま話

「暴走育児」を読んで思う。育児が苦行になる原因は、母親自身の中にある。

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 初めに

 

今回の内容もかなり暗いです…(-_-;)

 

「さぁ、これから子供の受験がんばるぞ!」と言う方は、

どうぞそのまま画面を閉じてください。

 

子どもの大学受験が終わってから、

なぜこうなってしまったのか、

なぜ私はここまで絶望しているのか、

自分の気持ちを整理中です。

 

ですので…

悲壮感漂う暗~い内容が続きます…。

あしからずご了承ください。

 

「暴走育児」という本

 

2009年に発行された新書、

「暴走育児・夫の知らない妻と子のスウィートホーム

石川結貴 著 

 

 

以前に読んだものを、

再び読み返してみました。

 

前半は「ヤンママ」を中心に、

後半は「教育熱心な親」について書かれています。

 

なかには、極端だなぁと思う例もありますが、

うなずける点も多いです。

 

最初に読んだのは

子供がまだ小学生のころ。

その時も、

「ここに書いてあるのは私のことだ」

と思いましたが、今は更にそう思います。

 

多くを教え、与え、

伸びる子、できる子、

やる気のある子を育てるための競争をつづけて、

ではいったい

どんな希望があるのかと問うたとき、

母親たちは

その答えを探せなくなっている。

<中略>

長い時間と多額のお金を費やし、

愛し、尽くし、

励まして懸命に子育てをしたところで、

さていったい

「私」は何を得られるのか。

 

(本文より)

 

重い責任やつきまとう選択、

場合によっては

リスクとなりかねない子育てが

「途中で投げ出せない負債」のように思える人は、

今後増えていくのではないだろうか。

 

(本文より) 

 

自分の育て直しとしての子育て

 

子育てをやめたい、

投げ出してしまいたい、

このまま逃げてしまうことができれば

どんなに楽かと、

何度も思ったことがあります。

 

私には

「子育てのお手本」がありません。

子どもはこう育てたらいいという、

見習うべき指針がないのです。

 

私の母は自分のことが最優先、

子どもの事は二の次という人でした。

 

決して悪気はないのですが、

人への共感性が低く、

感情のコントロールが下手なので、

そうなってしまうのです。

 

母なりに、

私をかわいがってくれたのだろう、

大事に思ってくれたのだろうと理解していますが、 

愛情表現に乏しい母親を、

私はどうしても

好意的に受け止めることができませんでした。

 

自分にもし子供が生まれたら、

絶対に母のようにはならない。

 

勉強ができる環境を整えてあげたい。

できるだけの愛情を注いであげたい。

自分がしてもらえなかった事のすべてを、

子どもにはしてあげたい。

 

それは子供のためでもあり、

同時に私自身のためでもありました。

私は子供とともに、

自分の子供時代をやり直したかったのだと思います。

 

負けたという思い

 

そんな強い思いを持って始めた子育てでしたが、

思った以上の大変さに、

何度も投げ出したくなりました。

 

お手本のない中で情報を集め、

何が良いのか悪いのか、

1つ1つ取捨選択をしなければならない。

 

いっぽ歩けば分かれ道。

そんな迷路のような道中を、

子どもの手を引いて

暗中模索を続けなければならない。

 

そんな大変な思いをしたにもかかわらず、 

中学受験でも大学受験でも、

子供を頂上に押し上げることはできませんでした。

 

「負けた」と思いました。

 

あの母の娘だから、

こうなったような気がしました。

 

「自分はできる!」

そんな意気込みを、

木っ端みじんに砕かれたような気がしたのです。

  

それでも「学歴」にこだわってしまう

 

失敗は許されないかのごとく、

より正しい子育てをし、

より良い結果を求めなくてはならない。

自分だけが努力するならまだしも、

周囲も同じようにがんばるわけだから、

いっそどう育てるかに必死にならざるを得ない。

<中略>

子どもの優秀は親次第、

親の努力が将来を決めるといった風潮は、

子どもからすればやりきれないし、

親にとっても相当なプレッシャーとなるだろう。


(本文より)

 

私はもともと、

「学歴至上主義」ではありませんでした。

 

東大や京大に合格するのはすごいことだけど、

それはその人に

「東大や京大に合格できる素養」があっただけのこと。

 

学校の勉強は「やれば誰でもできる」と言われますが、

決してそうではないと思います。

 

学校の勉強の出来不出来を決めるのは、

第一に「継続する力」です。

それには大きな個人差があります。

 

数の子どもを育てた人なら、

あるいは子供の教育に関わったことがある人なら、

それが経験的にわかると思います。

 

環境や遺伝的なものがどこまで影響するかは

まだはっきりとはわからないようですが、

先ずその子に素養があって、

それを開花させるような環境に恵まれた場合に、

「学校の勉強ができる」という幸運に

ありつけるのではないかと思うのです。

 

そう思いつつも、

なぜ私は子供の学歴にこだわってしまうのか?

 

それは、

子育てが成功したかどうかを確認できるものが、

学歴の他には思いつかないからです。

 

学歴が子供の能力や、

幸福度を決めるわけではないと分かっていても、

はっきりとした「成功のかたち」を求めるならば、

学歴のほかに何があるでしょうか。

 

親が手を出せるのは大学受験まで。

ここまでに何か目に見える成果がなければ、

自分の子育てが成功だったのか失敗だったのか、

わからなくなってしまいます。

だから異常にこだわってしまうのです。

 

自分の人生を生きる

 

親は子供に

どこまで影響を及ぼすことができるのか。

 あるいは影響してしまうのか。

 

ゼロとは言えず、100とも言えない。

何がどう影響するかは偶発的なもので、

結果論でしかないと思います。

 

「子どもは親次第」

これも同じく結果論でしょう。

 

子どもが人目にわかるような成果を出せば

「子供は親次第」と大声で言える。

そうでなければ黙して語らず。

 

我が子の成果を求めて頑張れば頑張るほど、

その先にあるのは地獄かもしれません。

少数の成功した親だけが甘い思いに浸ることができる、

非常に危険な賭けだと思います。

  

子どもの成果に必死になるのは、

母親自身の中に、

何らかの澱があるからかもしれません。

 

まずはその澱と向き合うことが必要なのでしょう。

 

自分の人生に納得しない限り、

子どもを肯定的にとらえることはできません。

 

自分の人生をきちんと生きる。

子育てにもし成功があるとするなら、

その先にしかないのだと思います。